「何のため」を考えてみる。

何のために掃除をするとか、何のために洗濯するのかという問いにはそう考えなくても答えが出てくると思うが、何のために生きるのかと問われれば急に難しくなってしまう。

難しいというより、

何のために生きるのか?という問いは正しい答えは出ないのではないかと思う。

もし、自分はこれこれのため(愛のため、正義のため、〇子ちゃんのため、この国のため、親のため、何でもいいが)に生きるのだと決めた人がいたとして、それはその人のいま現在までの経験の中から思い浮かび決めたものだが、今のその人にとっては間違いではないと言えるのかもしれない。

だが実際は「生きる」のような大きなテーマに対してひとつやふたつの「ため」だけが答えではないはずだし、

何より、この世は諸行無常、常に変化しているのだ。

その「何のため」に生きている間にも常に世界は変わり「何のため」に疑問を持ったり、邪魔になったりして動きづらくなることもあるのではないかと思う。

『あれ?私は何のためにこの仕事を選んだんだっけ…』
『あたしたち何のために結婚したと思ってるの!』

「何のため」を考えることが悪いとは思わない。だが、「人生」「仕事」「結婚」といった大きなテーマについて考え込んでいるうちに歳を取ってはもったいないと思うのだ。

それよりも、

つまり、

目的や意味を突き詰めてから行動に移るよりも、

目の前のやりたいことをどんどんやり、そこから、よりやりたいことが生まれ、そこから新たな出会いや目的も生まれ《続ける》、と考えたほうが楽しくはないだろうか?「何のため」など考えなくても、後で考えたら世のため人のため自分のためになっていたなんていうこともあるかもしれない。

『どんなふうにでもいいから出発することが必要なのだ。そうしてから、どこへ行くかを考えればよいのである。』アラン「幸福論」 (角川ソフィア文庫)

さて、

自分の絵の「何のため」についてちょっと考えてみた。これは明確なような気がしている。絵を描くということは、知るということ同じで、あらゆるものを描くということは、自分自身について、またさまざまなものの美しさや醜さなど含めたあらゆるものを知るということだと思っている。何のために描くかと聞かれたなら『知るため』と答えたい。

もちろん描くことはそれだけではないかもしれない。あらゆる芸術の表現は見る相手とつながるという重要な面もある。がとにかく描くことに関しては知りたいのだ。そして、知るは喜び。これは変わらないような気がしているがどうだろうか。

途中ちょっとずれたような気もしないでもないが、つまりは余計なことはあまり考えずまずは行動しようということ…にしようじゃないか。