脳、
脳は、刺激を与えれば与えるほど、その部分の細胞が太くなり、ますます電気が通りやすくなるという性質がある。
これは、
考えれば考えるほどその考えが強くなる、ということでもある。
ここで重要なのは、これが「良い」「悪い」や「好き」「嫌い」と言ったような考える《内容》とは全く関係がない、ということ。実は幸せになりたい人にとってこれ以上に重要な事実はないと考えている。
(忘れようと思うほど忘れられなくなるのはこの理屈による)
つまり幸福に関して言えば、
自ら幸せと認識する事柄を多く見ようとするなら、幸せは増大し、自ら不幸と認識する事柄を多く見ようとすると、不幸は増大する。
簡単に言うとそういうことだ。(簡単すぎるだろ)
雨が降ったときに、雨粒が傘やカッパに当たる音が心地よいと思うか、それとも雨が降ったというだけで『雨なんか降りやがって!』と不機嫌になるか。
さっきのあいつの態度はなんだ!と何日も腹立たしく思い続けるか、まあそんなこともあるか、とすぐに切り替えるか。
日常のどこにでも幸福や不幸の要素はある。不幸の要素を排除(「停止」というイメージに近い)し、幸福の要素を採用する。
そうは言っても、嫌なやつのことや昔の忘れたい思い出… あるよね…
そんな事が自然に頭に浮かんだりもするのだから仕方がない、と思う人もいるだろう。
たしかに望んでもいない嫌なことが突然頭に浮かんでしまうことは誰にでもあるだろうし、そんなこと考えるのはよそうと思っていたのにまた出てきてしまうということもあると思う。
頭に浮かぶこと自体を阻止することは不可能だ。そしてその事実を否定はできない(してはいけない)。しかしそのあと、その(頭に浮かんだという)事実に刺激を与えてそれを(頭の中で)増大させるか、(頭に浮かんだという)事実を事実として認めて(👈ここ重要)そこで終わりにさせる(さっき「停止」と言いました)か、幸福を考えるにはそこが重要な分かれ目だ。そして、これ(終わりにさせる)には技術がいる。
残念ながら、具体的なところはなかなか説明が難しい。理屈は冒頭で言ったのであとは自分なりに考えてみてほしい。 試してほしい。(ちょっと不親切?)
その技術を磨くと同時に、心地良かったことや心地悪かったこと、について自分の思いをよく観察し分析することも大切だ。
そして、次に同じことが起きた時にそれを制御できる準備をしておく。継続、増幅かあるいは停止か。無理に消去しようとするとかえって増幅してしまう可能性があるので注意しよう。
そして最終的にはそれを自動化する。
これを繰り返していくと、嫌なことがあまり頭に浮かばなくなるという豪華なおまけも付いてくる。頭の中の回路の使用頻度が変わり、結果、思考の優先順位が変わってくるからだろう。
幸せの形…思いは人それぞれだ。それは時代や場所、その人の育った環境でも変わってくる。
だが、どんな人であっても、自らの思考を制御することが幸せにつながる、ということに変わりはない。
私が考える「幸福」、
自らを自然に心地よい方へ制御できる状態にあるとき、その人は「幸福な状態」と言える。そして人は意志と努力によって、自らをそのように制御する技を得ることができる。
結論、
幸福とは探すものではなく、たまたま出会うものでもなく、誰かにもらうものでもない。
幸福とは、
自らの意思で常に身に纏うもの、である。
(カッコいい!)
以上、こんな文章をいつか投稿しようと思っていたのですが、昨日「新型コロナウイルスで突然死が多発」というニュースを耳にして投稿することにしました。
いつ死んでもいいようにしておこう。
令和二年四月二十三日
江戸川 画爛
画爛語録を掲載しました(2020/04/26)。お暇ならこちらもどうぞ。